「フランク・マーティン」という男。 [映画の話]
こんばんは。
久々に、長~い長~いコラムを書いてみたいと思います。
これまた久々に、映画のお話。
しかし今回は、『映画「トランスポーター」を観たことのある』方、ジェイソン・ステイサムファンの方、あるいは「水曜どうでしょう」ファンの方、もしくは活字中毒以外の方は、内容と私のハイテンションについてこられないかもしれません(笑)
どんなに悩みがあっても朝は来る。
何もしなければ、何も変わらない。
気持ちは暗く沈んでいても、せめて何か新しいことにトライしてみようと、私が、去年から新しく始めたことは二つ。
ひとつは、着付け教室。
日本人たる者、民族衣装である着物くらい自分で着られるべきである、というのが始めた理由のひとつだが、「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」なんて、着物姿は他人様を外から眺めているには優雅だけど、自分で着付けるのは至難の業。帯を結ぶためには、身体を柔軟にするストレッチが必要だと知ったのは私だけだろうか…?
着物や着付け教室に関してのお話はまたいずれの機会に。
もうひとつ始めたこと。それは映画鑑賞。
…と言っても、映画館に足を運ぶわけではなく、過去の映画をDVDで観る、というもの。毎日一本必ず…は無理だけど、年間に100本が目標。去年は目標達成。結局、130作くらい映画を観た。モノ書きという割に、私は今まであまりにも映画を観ていない。シナリオ学校へ行ってるときは、授業の資料に出てくる昔の映画を観ていたけど、数は全然足りない。
私は、本屋が好きだが、本屋に入ると、ものすごく寂しい気持ちになるときがある。
この膨大な量の本を、一生のうちどれだけ読めるんだろう?と思うとき。今回、映画鑑賞をしようと思いついて、レンタルショップやDVDショップを覗いていると同じことを思う。
一生のうち、果たしてどれだけの映画を観ることが出来るんだろう…?
だけど。
去年、書きかけでファイルを閉じてしまったシナリオを、再び書き始めるためにも、刺激を受けるためにも、映画は最適かもしれない。
千里の道も一歩から、と言うじゃないか。とりあえず、観られるだけ観てみよう!
好みの映画は?と聞かれれば、ベタな人間ドラマと答えるけれど、好みで選ぶ偏ってしまうから、邦画、洋画、年代、ジャンル問わず、とりあえず何でも観てみることにした。(と、言いつつ、夜中トイレに行けなくなると困るのでホラーだけは除外とする…)
選ぶ基準はタイトル。本を選ぶときと同じ。惹きつけられるタイトル、中身が気になるようなタイトル、もしくは、逆にタイトルだけは中身が全然思いつかないようなもの、まぁ、つまるところ、誰もが知ってる話題作じゃないものを中心に、内容は何でも、とりあえず観ることにする。(いつまで経っても、こういうところはあまのじゃく…)
評価は5段階。2時間の間にひとつでも心に響くセリフがあれば、3をつける。これが基準。感動したもの、もう一度観たいと思ったものは、それ以上。何も感じなければそれ以下とする。
ジャンルを問わず観ていると、気付くことはたくさんある。
やっぱりミュージカル映画は苦手だ、とか。流行語になった映画の中の主人公のセリフ、「あの映画を撮った監督(もしくは脚本家)は、この映画に傾倒してるのかな」とか、そういうディテールに気付いたり。世の中には、いろんな映画が数多く存在するが、その中で、ものすごく感動したり、涙したりするのは100本観ても、10本あるかないか。つまり1割未満くらいの確率だということも。
それを実感して当たり前のことに気がついた。
人生いろいろ。感性もいろいろ。私があくびをしながら2時間やり過ごした映画に感動する人もいれば、目玉が融けるんじゃないか?と思うほど泣いてしまう映画を、つまらないと一蹴する人もいるだろう。
世の中に、すべての人を感動させる映画はないのだ。
すべては、好みで決まる。
映画に限らず、何でもそうだが。
と、いうことで。
少しばかり趣向を変えて、感想ではなく「映画から学ぶ人間学」について書きたいと思います。
もちろん、猫たぬき流に、独断と偏見満載ですがね(笑)
記念すべき最初のお題に取り上げたいのは、2002年の作品(日本公開は2003年)。
ジェイソン・ステイサム主演「トランスポーター」です。
最近観た中で一番好きな映画。特にアクション映画が好きなわけでもなく、マッチョな人が好みってわけでもないんですけどね(笑)
これ、10年前の映画なんですね。当時、話題になったのかどうかも覚えていないですが、シリーズ物みたいなので、話題作だったのでしょう。(←いい加減な発言)
そう言えば、最近の日曜洋画劇場で「トランスポーター3」をやってましたね。テレビ放映の吹き替え版より、役者本人の声の字幕スーパーが好みなので、私はDVDで観たい派ですが。
「トランスポーター」の主人公、フランク・マーティンは、超A級の運転技術を持つ、プロの運び屋。
寡黙で慎重な性格、屈強な身体、卓越した武術、こめかみに銃を突きつけられてもビクともしない冷静沈着な男。
運びの報酬は高いが、依頼を引き受ければ、どんなわけありのものでも、確実に届け先まで運んでくれる。
映画冒頭の依頼主は、強盗。
強盗たちを、警察の追っ手から逃れ、仲間の待つ安全な場所まで送り届けるのが仕事。
フランクが、自分に課すルールは三つ。
「契約厳守(契約後は何があろうと変更、再交渉は受け付けない)」「依頼人の名前は聞かない」 そしてもうひとつ、「依頼品の中身は開けない」
非情なまでにルールに拘り、確実に依頼を成し遂げる。(ただし、そのための手段を選ばないところが、この映画の見どころである)
二つ目の依頼は、中身が何だかわからない大きな黒いバッグ。
しかもこの荷物、何やらあやしい。
ルール厳守のフランクが、禁を犯して依頼品の中を開けた瞬間から、話が展開していく…。
さて、ここからは猫たぬきの独断と偏見&フェチ満載でお送りいたします。途中「ついて行けんわ!」と思われる方は、早めに脱落のご決断を。最後まで読んで「なんやねん!」と言われても、
当方は一切の責任を負いません(笑)
まず、この映画の魅力は、何と言ってもジェイソン・ステイサム演じる主人公のフランク・マーティンに尽きると言っても過言ではない!!
今まで私の理想のひとは「織田信長」「フィリップ・マーロウ」「鈴井貴之」だったのだけれど、新たに「フランク・マーティン」と言いたい!! とってもとっても魅力的。
普段は静寂を好み、穏やかな優しい瞳をしているが、ひとたび戦闘モードにスイッチが入ると人を殺す勢いの鋭い目に変貌する。(それ、魅力!!その1)、女性及び弱い者に優しい。(それ、魅力!!その2)、常識ではなく自分の信念に従って行動する。(それ、魅力!!その3)。そして、極めつけ、仕事着はスーツ!!(←単なるスーツフェチ♪)
このジェイソン・ステイサムという役者(実はこの映画で初めて知ったのだけど)、善人にも悪人にもなれる不思議な顔立ち。身のこなしが優雅であり、何より目で感情のすべてを語るので、無駄なセリフがいらない。私が脚本を書くとしたら、ほとんどセリフを書かないだろうなぁと思ってしまう。(そら脚本としてアカンやろ…)
もちろん、アクション映画なのだから、アクションやカーチェイスがメインで、演出も素晴らしいのだけど、私は何でもない普通のシーンが好き。彼の表情、目の動き、注がれる視線、深く刻まれる眉間の皺、ためらう指先、片方の口元をほんの少しあげる仕草だけで、戸惑いや迷い、セリフに表せない行間や、何が言いたいのか何をどう思っているのかが伝わってくる。この役者が演じる、アクションじゃない話の映画を観たいと思わせる。
演技が上手いとか、カッコいいというだけでは語り尽くせないのが魅力というもの。
この「トランスポーター」のフランク・マーティンという男、彼の役をジェイソン・ステイサム以外の役者が演じていたら、これほど面白いと思わなかった。展開に細かな矛盾があるし、話の内容が特別に面白いわけではないし…。(←リュック・べッソン監督ファンの方すいません…。でも「レオン」は大好きなんですよ!!)
この映画は、話の筋じゃなく「フランク・マーティンという男」を、魅せているわけだ。
007のジェームズ・ボンドは何代も代わるけど(その都度、賛否両論だけど)このフランク・マーティンは、アクション俳優なら誰でも演じられるとは思えない。
最近の映画を観て、あまり面白くないなぁ…と思う要素のひとつは、「この役者でなければこの映画は成りえない」と思えるものが少ないこと。
主役が別の役者でも成り立つんじゃないか? 誰それが演った方が面白いんじゃないか? と、簡単にキャスティングを頭の中ですりかえられるようじゃ、2時間の上映時間、観客を惹きつけておけない。
この「トランスポーター」のフランク・マーティンは、ジェイソン・ステイサム以外の役者じゃありえない! と、強く思う。(あくまで猫たぬきの独断です♪)
で。アクション好きじゃない私がこの映画のアクションで一番好きなシーンは、依頼品を送り届けた帰り道、ドライブインで休憩していたところに、依頼主の仕掛けた罠によって愛車を爆破され、戦闘モードにスイッチオンされたフランクの表情から始まるシーン。
チャイムを鳴らすと同時に、依頼主の屋敷のドアを蹴破ってフランクが派手に乱入。
カードゲームに興じていた数人の用心棒は一斉にピストルを抜いて撃つが、すばやく壊したドアを盾にして逃れる。
奴らがカードゲームをしていた卓のテーブルクロスを振り上げ、卓上に置かれてあったピストルが宙を舞い、手元に落ちてくる時間と位置を計算しながら、卓を倒し、クロスで器用に敵をかわす。後ろ手にそれをキャッチしてからはフランクの独壇場。あっけなく用心棒は床の上に転がっているという寸法。
「奴(ボス)はどこだ?」と、フランクが瀕死の敵に迫ると、敵が後ずさりして姿見鏡によろめき、鏡の角度が変わったことで、後ろから別の敵が狙っているのが映る。
映像は細かいカット割りで、手元だけ、後ろ向きで足元だけしか映っていなかったりするのだが、鏡には全身が映し出されているという演出がいい。
その後、フランクはガレージの車を失敬して屋敷を立ち去るのだが、このシーン中に流れていた、およそアクションにそぐわないのん気な曲が、フランクがカーステレオのスイッチを切った瞬間、終わるという演出。何度観てもこのシーン大好き♪
さて。
ここまで読んで、「どこが人間学やねん!」と思われた方、ここからが本題です。
前フリが異常に長くメンドクサイ、猫たぬき本来のコラム復活です。
フランク・マーティン大好きの前フリから、人間学へと移行させますのでご安心を。
今回の人間学。テーマは「拘りの美学」かな?
フランク・マーティンは、非情なまでにルールに拘る男。
それも、誰かに決められたルールではなく、「自分で自分に」ルールを課す男。
あなたの周りにもいませんか? やたらと自分に対してルールや決まりごとを作る人。
もちろん、猫たぬきもそのひとり。
こういう人間って「融通が利かない」とか、「へんこ(関西弁で頑固者のこと)」とか、「メンドクサイ人」と、言われる。
まあ、確かにその通りなのですが、それには理由がありまして。
自分に対してルールを作る、つまり枷をかける人は、非常に感情過多な人間が多いのです。
フランクも当然、「へんこでメンドクサイ男」なのです。
感情過多だからこそ、あえて自分で自分にブレーキをかける。
過去に感情過多のせいで辛い経験をしたのかもしれない。傷つくのが怖いからなのかもしれない。良く言えば繊細、悪く言えば臆病、なのです。
感情過多な人間は、感情が溢れてしまったら後戻りが出来ない。
人によっては、「まあいいや」とか、「何とかなるさ」という楽天的なものの考えが出来なくなり、より悲観的になる傾向が強い。だからこそ、先手を打って感情を抑える術を使うわけです。自分の性格をよく知ってる、とも言えるわけです。
世間一般で例えるなら、恋愛事情が最もしっくりくる。
臆病な人に限って、相手に対する条件が多かったり、愛するより愛されることを望む傾向にある。
自分に注文が多い人は、相手に対する注文も多いということ?
人を好きになることは素敵なことだし、恋愛は幸せなことだけど、好きな相手を手に入れてしまったら、今度は極端に失うことを恐れるようになる。
本当に愛されてるのか確かめたいから、要求はエスカレートする。
それが逆効果になると知っているのに、暴走を始めた感情が止められない。それが怖い…。
男より女の方が恋愛に慎重なのは、女の方が感情過多だからだと思う。(ま、最近は草食男子とか肉食女子などと言われたり、人それぞれの性格にもよるので一概には言えませんがね)
容姿も性格も悪くない。なのに、何故か巷に独身男女、恋人のいない人が多いのは、出逢いがないわけでも、魅力がないわけでもなくて、男も女も、自分で自分のルールに縛られて、傷つかないよう、感情にブレーキをかけているせいなのかもしれない。
もうひとつ。映画からご紹介を。
映画「ニューヨークの恋人」の中で、メグ・ライアン演じる、恋に臆病なキャリアウーマンのケイトが言ってます。「私、恋は失敗ばっかり」
過去からタイムスリップしてきたレオポルト公爵が答える。「相手が違っていたのかも」
「恋もサンタクロースと同じでおとぎばなしなのかもしれない」と、ケイト。「飛び下りるのが恋だ」と、レオポルトがケイトを真摯に見つめる。
ケイトはレオポルトに惹かれながらも、目の前の恋に飛び込む勇気が出せない。「本当の私は弱虫なの」
レオポルトが言う。「真の勇気とは、たとえ危険でも、恐れず足を踏み出すことだ」
レオポルトが「本当の相手」とわかっているのに、過去に傷ついたことのある人間は、自分を護ろうとする。
ケイトのその気持ち、すごく理解出来る。
しかし、レオポルトの言うように、飛び込んでみなければ、掴めないものもある。
自分を、自分の人生を、変えたいと本気で思うのなら。
フランクも、多少不本意ではあるが、自分で決めたルールを破ったことから人生が変わってしまう。
一見クールで冷静沈着、まるで感情がないかのように思えるフランクは、本当はアツイ男。
自分を護るために決めたルールを破った瞬間から、感情が溢れ出し、冷静では居られず、内面の情熱や優しさが見え隠れする。
強盗には、あんなに非情なまでにルールに拘ったのに、ルールを破ってしまった今は、戸惑いながらも非情になりきれない。
「面倒はゴメンだ」と口では言いながら、女の涙に弱く、弱者を放っておけない。女の涙や面倒ごとが絡むと、スタコラ背中を向けて逃げ出す軟弱男とは比べ物にならない。
自分の信念がブレない男。タルコーニ警部に対しても言ってます。「自分の法に従うんだ」、と。
だから、「自分で自分に課すルール」は、必ずしも「弱いから」だけではない。ここまでの拘りを持っていれば、それはもう「美学」と言っても過言ではない。
映画の中で、「ルールなしでは何も出来ないんだな」とからかわれるが、フランクは意に介さない。
そのルールは、誰かに決められたものじゃない。自分自身で決めたこと。だからこそ、いざというときは自分の意思で破ることも出来る。そうすることが、自分の信念に従うことであるならば。
もうひとつ。
自分で自分にルールを課す人間は、それをどこかで楽しんでいる節がある。おそらく、フランクも。
フランクに限らず、人は誰でもひとつくらい自分の中でルールや決め事を持っているのではないだろうか?
「禁酒」や「禁煙」だって、立派に自分とのルール。変り種としては「借金するほどギャンブルにハマらない」とか、「別れた恋人の悪口は言わない」とかね(笑)
猫たぬきのルール、拘りは、「したくないことは、しない」。
仕事に関することは別だけど、プライベートでしたくないことは絶対にしない、と決めている。
食べたくないものは食べないし、嫌いな人とは接しないし、気分次第で動く。
もちろんルールは、ある意味、枷でもあるから、弊害はある。
私は天才的に「人を怒らせるのが得意」というマイナスの才能があるらしいので(無意識だから直しようがない)、その上「したくないことはしない」何て言ったら、究極の自己中と言われるし、人から嫌われることも多々ある。
それはそれで仕方ない。嫌われないようにと人に合わせて生きても、自分がそれを幸せだと感じられなければ意味がない。…と、最近悟りを啓いた(笑)
自分にとって一番大事なことは何なのか?
それさえブレなければ、自分で自分にルールを課すのは悪いことじゃない。
「ルールを決める」のも、「ルールを破る」のも、人生の楽しみのひとつと思わないとね。
人から言われてルールを破る気はないけど、もし私がルールを破って「したくないことをする」ことがあれば、その方が人生楽しくなると、自分が心底思えたときだろう。
私の周りには、「ルール(拘り)を作らないことが自分のルールだ」というひとがいる。
何ごとも、あるがまま受け入れる。
大木は風に折れる。しかし、しなる柳は折れない。
投げやりにでもなく、風見鶏のように風に流されるだけなのでもなく、一本筋の通った信念を持ち、しかし、あらゆることを自然体に受け止めることの出来るひと。
そういうひとが、本当の意味で強いひと。
そういう拘りも美学。
「トランスポーター」のフランクは、決して完全無欠のスーパーマンではなく、心に危うい脆さを秘めた、それでいて強く優しい男。だからこそ魅力がある。
人間の魅力と欠点は表裏一体。
「フランク・マーティン」のように、自分の中のルールや拘りを美学にまで引き上げて、欠点も魅力だと思わせる、素敵な人間になりたいものですね^^;
「トランスポーター」をご覧になったことのある方、これってフランス映画だったってご存知でしたか?
「アクション映画=ハリウッド映画」は、ベタな発想だったんですね。そういえば、フランクの家は南フランスの海辺でした。
それにしても、これだけ長い文章を書きながら、まだまだ私は、「フランク・マーティンという男」の魅力を伝え切れてない気がします。伝えたい気持ちだけが空回りして、ああんもう!! という心境です。(どんな心境?)
語るにしても、まだ1しか観てないですしね…。
さてさて。「フランク・マーティンという男」を探究するために、さっそく2と3のDVDを探しに行かなければ。
でも、どうなんだろう? シリーズ物ってやっぱり最初が一番面白かったっていうのが多いよね。
もし、「トランスポーター」ファンの方や、ジェイソン・ステイサムファンの方がこのページを読んだら、コメントや情報などいただけると嬉しいです^^;
もうひとつご紹介した映画「ニューヨークの恋人」(2001年作品)は、ある意味ありがちなSFチック、ラブストーリー。
ただし、NYを白馬に跨ってケイトのピンチを救うレオポルトは必見かも(笑)
私がこの映画で一番好きなセリフは、主役のふたりじゃなく、脇役のスチュアートのセリフ。
「僕は、虹を見た最初の犬なんだよ」というくだり。
人は、荒唐無稽な話を信じない。例え、それが真実だったとしても、ありふれた嘘の話の方を信じる。事の真偽より、現実的な、自分が納得できる話の方を信じる。
自分の目に見えるもの、信じられるもの、または、信じたいものしか、信じない。
好きな人に信じてもらえないのもまた、孤独の始まりなのだ。
興味のある方は、スチュアート目線でこの映画を観ると、感想がちょっと違ってくるかもしれません。
ではでは。
次回、心に響く映画に出逢ったら、またこのページでお逢いしましょう♪
とってもバレンタインなクリスマス♪ [想い]
今年に入って初めて書く記事。
何にしよう、何にしようと思い悩んだ挙句のこのタイトル。
おっと、タイトルのご説明より先に、まずは新年のご挨拶。
あけましておめでとうございます^^; ♪ …って、今、何月よ?!(恒例のひとりボケツッコミ)
ではでは、タイトルのご説明を。
すでに季節感がごちゃごちゃになっとるやないか!! …ですが、これには深~いワケがありまして。
去年は、ホント悩み多き年でして。(あ、一昨年もそうだったかも)
悩みとコラムの量は反比例する。
悩みが多すぎると、語りたいことが少なくなる。
いや、語りたいことはたくさんある。
でも、それは単なる愚痴でしかなく、自分の中で処理しきれない膿のようなものを垂れ流しているに過ぎない。
誰だって、人の愚痴や後ろ向きなコトは聞きたくも読みたくもない。
自分の気力が充実してないと、良いモノは書けない。
シナリオ然り。もちろん、コラムも。
自分が納得出来ないものを、人様にお見せできるわけがない。
というわけで、どんどん書くことが出来なくなる、という悪循環になるのだ。
コトの起こりは、日常生活ではよくある、友人との仲違い。
ケンカであれば、仲直りは出来る。
しかし、人格の否定であれば、仲直りは容易ではない。
人を信じられない自分がいる。
もう、ただそれだけで、生きることが辛くなる。
こういうとき、想像力があり過ぎるということは、短所以外の何物でもなくなる。
仲違いをした友人はひとりだけなのに、周りにいるすべての人たちが、実は誰も言わないだけで心の底では私のことを疎ましく思っているのでは? 嫌っているのでは?という被害妄想に陥る。
私は、好きなひととしか友人付き合いをしないから、傍にいるひとはみんな好きだけど、相手がどう思っているか本当のところはわからない。
そんな人たちではないとわかっていても、被害妄想というのは、自分の手には負えない速さで醜く脳内を巣くい、心を蝕んでいく…。
そういうモードのときは、私の落ち込みの元凶を知っている友人の優しい言葉には、とても感謝しているし有難いけれど、残念ながら慰めにはならない。
人に話して解決する悩みは、さほどの悩みではない、と私は常々思っている。それは人に助言を求める、相談、である。
助言に頼るのではなく、慰めに甘えるのではなく、地の底を這うようにのた打ち回って苦しみ、考え抜き、その中で浮上して自らが答えを出すようなことこそ、真の悩みなのではないか、と。
だから誰にも何も聞かないし、ただひたすら自分一人で殻に閉じこもって、なるべく人との接触を避け、ひたすら何かを考え、気持ちが浮上するのを待つ。傷ついた獣が、外敵に見つからない場所に隠れ、物も食べず水も飲まず、ただひたすらに傷が癒えるのを待つかのように…。
だが、どんなに傷ついても傷つけられても、朝は来る。
人間の日常生活は待ったなしなのだ。
仕事をし、人と会話をし、心とは反比例しても、微笑まなくてはならないときがある。
殻に閉じこもるのは、主に深夜。
世の中が眠りに落ちる真夜中に、自分で作った殻に閉じこもる。
心に刺さった氷の棘は、季節が変わっても一向に溶けず、ずっと私を苦しくさせた。
しかし。
そういう過程の中で、見えてなかった自分の欠点や配慮の足りなさ、などを発見する。
『人は、傷ついて反省するものなり』
それからは、自己嫌悪の日々…。
そんな、被害妄想と自己嫌悪の繰り返しを過ごしていた私が、最大に癒されたのは、クリスマスに届いた贈り物だった。
北の大地に住む友人と、西に住む友人から、偶然同じ日に、同じ贈り物が届いたのだ。
二人には何の接点もないのだから、示し合わせて同じ贈り物をするはずはないのだが、奇しくも届いた贈り物は、チョコレート。
北の大地では、知らない人はいないだろう有名なチョコレート店のもの。
西では、人生の中で必ず一度は口にしているだろう有名菓子店のもの。
どちらも、私の大好きな店のチョコレートだった。
チョコレートの成分は、苦いカカオ。
それでも、口に含むと甘さが口いっぱいに広がっていく。
甘さと苦さが、交差しながら口の中で溶けていくとき、私の心に刺さった氷の棘も、ようやく溶けていくようだった。
添えられたクリスマスカードには、一年に一度逢えるか逢えないかの関係なのに、温かい心が満ちていた。
もちろんチョコレートも嬉しいが、それ以上に、カードに添えられた言葉が嬉しかった。
私の悩みなど知る由もない、二人の友人。
だけど、カードからは溢れんばかりの温かい心が伝わってきた。
この世に、これ以上素敵な贈り物があるだろうか?
『この空の下、私のことを忘れず想ってくれているひとがいる』
そう実感出来るからこそ、人は生きていける。
自分で作った人間不信という名の殻に自ら閉じこもって、被害妄想と自己嫌悪に明け暮れて過ごした日々。
その殻は硬く、中は冷たく、対外的には普通に振舞いながらも、心はいつも凍えていた。
春の暖かさでも、夏の暑さの中でも溶けなかった氷の棘が、これから冬到来真っ盛りのクリスマスに、一気に溶けたのだ。
それからは。
ひとの言葉を素直に聴けるようになっていた。
『どんな傷も、時の流れの中で癒される』
私は、やっと普通の感覚を取り戻したのだ。
時間は前にしか進まない。
過去へ戻って、友人と仲違いする前には戻れない。
だけど、お互いにとって本当に必要なひとならば、関係は修復するだろう。必要のないひとならば、このまま風化していくだけだ。
だけど、もうそれについて悩むことはない。
酷い被害妄想に陥ることもない。
こんな私を、好きだと言ってくれる友人がいる。
どんなに遠く離れていても、心がつながっているひとが、私の周りにいるのだから。
私の危機を救ってくれた二人の友人には、バレンタインデーに、感謝と愛を込めたカードとクッキーを贈るつもりである。
ん?
バレンタインなのに、なぜクッキー?
…とお思いでしょうか?
それとも聡明な読者さまは、このシャレがお分かりでしょうか?^^;
説明しよう。
クリスマスがバレンタインデーなら、バレンタインデーはホワイトデーの贈り物で季節を先取りしよう♪ …ってことです。二人にも、このくだらないシャレがわかってもらえるかしら(笑)
しかし。
なまじシャレを理解して、ホワイトデーに柏餅のお返しがきてしまったら…?
…さて、この次は何を贈ろうか?
真夜中の散歩 [想い]
真夜中というには、少し朝に近く、朝というには、あまりに暗い。
そんな、中途半端な午前4時。
私は、そっと散歩に出掛ける。
どの窓にもほとんど明かりはなく、皆が眠っている時間。
目覚めていない、夜の空気。
…夜の時間は音も光もなく、ただ静かに流れる?
否。
夜にも音が、光が、ある。
虫の音。用水路の水の音。新聞配達人のバイクの音。
月の明かり。星の瞬き。マンションの常夜灯。時折走るタクシーのテールランプ。ラスタなライブ照明のように色を変え続ける信号機。
夢や眠りを妨げない音や光が、真夜中には存在する。
夜の空気が好き。
月の明かりが好き。
星の瞬きが好き。
残暑厳しい昼間のような熱気はなく、ノースリーブのシャツでは肌寒いくらいの空気の中、ただ、歩く。
私は、四六時中、何かを考えている。
シナリオの題材だったり。
自分のこと、他人の気持ち。
取るに足らないこと。くだらないこと。
答えの出ることから、出ないことまで。
眠っている時でさえ、夢を見る。
現実的な夢、非現実的な夢。
常に何かを考えながら、生きている。
今年も一作、何か舞台をやりたくて。
書いていたシナリオは、ラストを描ききれず、ファイルを閉じてしまった。
半分だけのシナリオ。
何の意味もない、シナリオ。
再びファイルを開けて、続きを紡がれるのを待っている。
いつも、その続きを考えている。
すでに書き上げた織田教授と鈴木のセリフは、何度も口ずさんで覚えてしまった。
なのに、白紙の行の続きが書けない…。
無心になれるとき。
ライトをあてているとき。
歌っているそのひとに。音楽を奏でているそのひとに。
一瞬の光のシャワーをあてる。
そのひとを照らすのではなく、空気に色を付け、そのひとの音楽に色を添える。
照明のライトのせいじゃなく、そのひとそのものが輝く瞬間、そのひとの心を照らしたような感覚に陥り、無心になれる気がする。
頭で考えず、その瞬間の気持ちが、指先から伝わる。
想いを伝えるのは、いつも指先から。
言葉も、照明も、指先から伝える。
無心になりたくて、黙々と夜の道をひたすら歩いていても、指先が凍っていくように感じる。
頭は常に何かを考えていて、指先にはその言葉は伝わらない。
人の気持ち。
答えを出さなきゃならないこともある。
なのに、未だ答えを出せないでいる。
頭上には、瞬くオリオン座。少し欠け始めた月…。
少しの間、空を見上げていると、星が流れた。
心の中で呪文のように願い事をつぶやく。
でもきっと、私の願いは叶わない。
真夜中の散歩は、まるで迷路に迷い込んだかのよう…。
ガラクタとダイヤモンド。 [日々思うこと]
どーもどーも、猫たぬきです。
しばらく…というか、前回の更新日は8月ですか。ほぼ一年ぶりの更新ですね(笑)
もうすでに記憶から消されている可能性があるので、一応ご挨拶をしておきましょう。
「どーも、奥さん。知ってるでしょぉう? 猫たぬきでぇございます」(←大泉口調で読めるアナタは立派などうバカです!!)
さてさて。
本日は猫たぬきの誕生日!! ということは、ブログ開設5周年でございます。
いや~、最初は毎日更新していたのにねぇ…。そのうち、一週間に1回くらいになって、一ヶ月に1回になって、今じゃ年に1回の更新て…。
パソコンの前に座るのは毎日のことだけど、ブログを開いて文章を書くのはホント久しぶりで、ブログの書き方を忘れてしまいましたよ。どうしましょ。何を書きましょうかねぇ…。
前回書いたのは、朝カレーの話でしたっけ。
じゃあ、今回は少し真面目に人生の話などを。
3月11日に起きた東北大震災から三ヶ月。
国会は何をやってんだか内輪もめばかりで、復興は遅々として進まず、未だ被災者は安定した日々の生活を送れず、不安の中にいる。
福島原発から離れた静岡でも、一番茶に暫定基準値を超えるセシウムが検出されたりもした。
もうすでに、20キロ圏内だ、30キロ圏内じゃ計れない。どこまで拡散してゆくのかわからない、目には見えない放射能という恐怖にさらされながら、私たちは生きている。
「もっと、自分の価値を考えてみるといい」
これは、最近まで親しくしていた友人のセリフ。
その友人とは、今は疎遠になってしまったけれど、いろんなことを教えてくれた大切な友人だった。
だけど、時々、私にはよくわからないセリフを言った。
「価値」とは、何ぞや?
例えば、美術品や絵画、陶芸品などには、高値がつくことがある。
高名な画家の絵がオークションにかけられれば、マニアが血まなこになって競り落とす。
その絵画には、マニアならではの「価値」があるからだ。
つまり、そのものの「価値」は、描いた当人ではなく、見る側の他人が決めている。
「価値」というものは、「自分」が決めるものではない。
宝石ひとつにしたって、ダイヤモンドの価値がわからない人間には、ただ光る石ころにしか思えない。小指の爪の先ほどの石に、何千万も払う人間の気が知れないと思うことだろう。
売る側が、「これには、その値段の価値がある」と説明しても、買う側に価値がわからなければ、話にならない。
「価値」というものは、片方が決め付けても成立しない。
しかし。
ものに価値をつけるのは、自分ではなく他人だと言ったけれど、私は、生き物に「価値」をつけるのを好まない。
ペットブームにのっとって、人気の動物がペットショップで売れている。
だけど、ブームが去ったら、その動物はどうなるのだろう?
ペットを家族として扱う「ペット愛護者」が増える一方、心無い飼い主によって捨てられるペットが後を絶たない。
かつて自分の元で共に生活し可愛がっていた動物の末期を、飼い主はどう思っているのだろう? 自分にとって「価値のなくなった」ペットはどうなろうが構わないから、そのようなことが出来るのだろうか。
虐待する親は、子供の絶対的君主である。血という繋がりを盾にとって、しつけと称して虐待する。
虐待された子供は、親から「自分は価値のない人間だ」という刷り込みを与えられて大人になる。
何かにつけ自分に自信がなく、「どうせ私なんて」と思い込む。だけど、そんな自分が嫌で自信を持ちたくて、でも何をやっても自信が持てなくて、過去のトラウマに縛られて、ジレンマに陥る。
今の国会は、被災者そっちのけで、わけのわからない内輪もめで時間とお金と電力を費やしている。(くだらないケンカはすべての電気を消してローソクでやればいいのに…)
あの人たちは、自分で自分の価値を決めているような気がする。
「私は素晴らしく価値のある人間なのだから何をしても何を言っても許される」と思っていように感じる。
あの人たちの言う、「国民の皆さまのために、全力を尽くしてがんばっています」というセリフは、銀行のATM機から聞こえる何の感情もこもらない「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」と同じに感じる。
だから、被災地の人たちに「何をやってるんだ」と言われようとも、自分の価値を過信しているから何とも思わない。何とも感じない。「国民の皆さまのために」と、もっともらしく心のこもらない言葉を、ドヤ顔で、テレビ画面からお茶の間に流せるのだ。(ように、私は感じる)
なのに、一国の総理ともあろう人物が、何も決められず、何も出来ず、責任のなすり付け合いばかりしている事実。
「国民の命を護るべき立場」にありながら、隠し事、キレイ事、嘘八百で、国民を危険にさらし、心配しているのは、「国会での自分の立場」のことだけ。
自分がつける価値と、他人が評価する価値は、あまりにもズレている。
「価値」って、一体何?
私は自分のことを、「素晴らしく価値のある人間だ」と過信も出来ないし、どちらかというと、いつまで経っても自分に自信がなく、「どうせ私なんて」とイジケてウジウジする情けない人間で、「価値」うんぬんを考えたこともなかった。
だから。
私は、ものにも人にも、価値を求めない。
何を見ても「価値あるものだ」とか、誰を見ても「価値ある人だ」とも思わない。
「好き」とか、「大事」、『大切』だと思う。
自分の大切にしているものは、壊さないように大事に扱うし、誰にも譲れない。
それにどれだけの価値があろうと、まったく価値がないものだろうと関係ない。
人もそう。
誰がどれだけ悪口を言っても、評判が悪くても、私がその人のことが好きで、大切に思えるならどんな人でも構わない。
自分の好きな人に、価値などつけられない。
震災で亡くなった方も、大切な何かを守るために必死だったんだと思う。
家族だったり、恋人だったり、友人だったり、町そのものだったり。
「価値」があるから、守るんじゃない。
心の命ずるままに、「大事だから」、守ろうとした。
その証拠に、被災地で被災者家族が一番見つけたかったものはアルバムだった。
「思い出」に価値などつけられない。
誰もが無くしたくない一番大切なものだ。
もう疎遠になった友人だから、今さらその話の続きは聞けないけれど、おそらくその人にとって私は「価値のない人間」に分類されたのだろう。
「価値」を決めるのは自分ではなく他者なのだから、それも仕方ない。
…んん? これがいわゆる「価値観の違い」ってやつか?!
なんて、オチがついたところで。(え? オチてない?)
あ。
「価値観」という言葉で昔読んだ文章の一節を思いだした。
『価値観が違うからこそが他人が自己とは違う所以なんです。
己の器を広げる能力のない人には、価値観を言い訳にするしかないんでしょう』
…深い。
己の器が狭いのね、ワタシ。
何ごとも受け入れる、懐の大きな人間。己の器の広い人。
ソウイウヒトニ、ワタシハナリタイ…。
…と思っていたら、疎遠になった友人と交差するように、私は、私を「大切」だと思ってくれる友人と知り合った。
懐深き、器の広い人。
傍にいて、話していて、ふと何気ないそのひとの気質に触れたとき、
「あなたのような人間になりたいなぁ」
と、言うと、
「そのまま(の性格)で、いいんじゃない?」
と、その人は言った。
性格なんて一朝一夕で出来上がるものじゃなく、直すといっても簡単なことじゃない。
大事なのは、自分が自分を愛してあげること。
あとは、波長だと。
自分が楽しい電波を出していれば、おのずと人が集まる。
それこそが、本物の友人でしょ、と。
少し前に、別の友人も似たようなことを言った。
「自分の長所と短所なんて、表裏一体だからね」とか。
「自分のチャンネルと同じチャンネルの人間が周囲に集まるものだよ」とか。
確かにその人と出逢ってから、また他の、とても波長の合う人と友人になれた。
人との出逢いは不思議なもので、こうやって人は出逢いと別れを繰り返していく。
この世に、無意味な出逢いなんて、ひとつもない。
もちろん、心地良い出逢いだけではなく、苦い別れもある。それでも、私は人と出逢いたい。
男とか女とか性別に関係なく、ただ「大切だ」と思えるひと。
そういうひとと、出逢いたい。交流したい。心を通わせたい。
ガラクタか、ダイヤモンドか?
自分にとって、必要で、大切で、失いたくない、かけがえのない人は、誰が何と言おうと、自分にとってのダイヤモンドだ。
道端に転がっている石っころのようなガラクタな自分も、見る人によっては、ダイヤモンド…には程遠いけど、水晶のカケラくらいには見えているかもしれない。
この世で、この目で、ダイヤモンドを見つけだせる奇跡。
素敵な冒険であり、発見だ。新種のダイヤモンドを掘り当てるかもしれない。
明日も生きているか、確証がないからこそ、今日一日が大切に思える。
カレンダーをめくったとき、「あれ? 今日あの子の誕生日だっけ」と思い出してもらえる存在。
天災があったとき、「そっち大丈夫だった?」と心配してもらえる存在。
何気ないときに、ふっと「あの子、元気かな?」と思ってもらえる存在。
空を見上げるとき、月を仰ぐとき、この空の下のどこかで、元気に生きていて欲しいと思える存在。
友人がそう思ってくれるように、私もみんなのことを思いたい。
それこそが、シアワセ。
それこそが、大切。
だからこそ、人生は楽しいね。
今日、私の携帯は、届いたメールでいっぱいだった。
mixiメールにも、パソコンメールにも、「誕生日おめでとう!!」とメールをくれた友人たち。
遠く離れて、年に一度逢えるか逢えないかの友人からもあった。
嬉しくて、嬉しくて。
365日の中の1日。
何の変哲もない1日が、「おめでとう」で満たされる…。
みんな、ありがとう。
いつ、どこへ飛んで行っちゃうか、先のことはわからないけれど、とりあえず今の私は、静岡の地で元気に暮らしています。
そして、このブログを読んでくださっているすべての皆さまに、愛と感謝を込めて。
ありがとう!!
さて。それでは、お茶にいたしましょう。(←おお、久々のフレーズ!!)
誕生日だから、ワインでも。…と思いましたが、何と、このブログを書いてる間に結構な量のワインを飲んでしまいました。
なので、新茶なぞ。
セシウム検出で、揺れているお茶業界。
だけど、そんなこと言ってたら空気だって吸えなくなる。
赤ちゃんや子供には、将来どんな影響が出るか未知数だから控えるとしても、私は「このお茶は危険だから飲むな」レベルのものでない限り、普通に飲みます。
今年の新茶は、今年だけのもの、だからね。
「朝カレー」とワタシ。 [お茶と食事の話]
カレーに合う飲み物といえば、甘いアイスティー、ヨーグルトラッシー、といったところでしょうか?
どうも、いらっしゃいまし。
ひとは。
誰でも一度くらいは、此処ではないどこかへ行ってみたい…。と、考える。
でも本当は、自分を必要としてくれて、大切に思ってくれる人がいる此処が、今いる場所が、一番居心地の良いところ、「自分の居場所」なのだけれどね。
さて。
非常にお久しぶりの猫たぬきでございます。
とある場所で知り合いに逢い、数少ない私のブログ愛読者である彼女から「最近、全然更新してませんねぇ」と笑顔で言われてしまった。
すみません…。決して!! 決してサボっているわけでは…(小声)
前置きで、何だかメンドクサイ人生論を語り出すのか? と思われたでしょうが、今日書きたいのは人生論じゃない。
「おでんの色気」に続く第二弾、食に関する私の独断と偏見のハナシである…。
なぜか。
私の周りは「カレーLove」な人が多く、朝からカレーでも、三食カレーが一週間続いてもいい!! なんて言う、アンタはインド人か?!と思わずツッコミたくなる「カレー中毒」な人までいる…。
ちなみに。
私はカレーを嫌いじゃないけど、三食カレーが続いてもいいほど好きではありません。 (関西人の誇りにかけて、三食お好み焼きなら、無きにしも非ずですが)
本日のお題、「未知との遭遇、カレー編」です。
先日、東京へ行きました。
東京駅に着いたのは午前9時前。
普段は昼夜逆転の生活をしているので、いつもなら眠っているこの時間。同じように閉まったシャッターが並ぶ、まだ完全には目覚めていない東京駅の地下街…。
その中で開いてる店がちらほら。時折、芳しいコーヒーの香りが流れてくる…。
モーニングサービスを出している喫茶店である。
そうだ!! 久々に「ソトアサ」しよう!!(喫茶店でモーニングを食べることをソトアサと言うそうな…、もう古い?)
最近は夏バテで食欲減退気味でもあり、いつもなら起きてすぐ固形物など食べられない胃袋なのだけど、今日は食べておかないと身体が持たない。
…と。
選んだ店は、「果物屋」と言えばたいてい誰でもご存知の有名なお店。果物店の老舗である。あえて、名前は伏せる。
そこでやってるモーニングメニューの種類は、3つ。
トーストモーニング、サンドイッチモーニング、ワッフルモーニング。
どれも、フルーツヨーグルト、サラダ、ドリンク(珈琲or紅茶)がつく。
ここが好きなのは、店の規模はこじんまりしているのだが、慌しくなく、紅茶を飲みながらゆっくり本など読んで静かに過ごせるところ。全席禁煙なのが心地良い。
メニューを見て…。
おっと、ビックリ。前に来たときよりメニューが増えている。
その名も、「朝カレー」(ドリンク付き)である。
いつもなら迷わずシンプルなトーストモーニングにするのだけれど、今日はサンドイッチ…、いや、ワッフルもいいな~と思っていた私が、なぜか突然「カレー」に目覚めた。
「この朝カレーって、辛口ですか?」(辛いカレーは苦手)
「いえ、マンゴーを使ったカレーですので、辛すぎるということはないですよ。中辛から甘口の中間くらいです」(店員も教育が行き届いていて感じが良い)
ふむふむ…。
さすが、老舗の果物屋。
マンゴーカレーときましたか。
食べ物に関しては、あんまりチャレンジ精神を発揮しない保守的な私だけど(ホントか?!)ここで食べなければ、おそらく生涯マンゴーカレーなるものを食すことはあるまい。(大仰な…)
そんなに「カレーLove」ではない私だけれど。
迷わず(いや、ホントはちょっと迷って)朝カレーを注文した。
待つことしばし。
「お待たせいたしました」というセリフと共に、目の前に差し出されたカレーの上には…,何と!!
色とりどりのカットフルーツが散らされていたのだ !!
注文の品を置いて去っていく店員にヒトコトの声もだせず、ボー然とカレーの皿を見つめていた私が心の中で何と叫んだか、お解かりでしょうか…?
『此処は、断じてキミたちの居る場所じゃなぁ~い!!』
フルーツさんはね。
冷たいアイスクリーム、もしくはフワフワのスポンジケーキに支えられ、甘いジャムや、シルクのように滑らかな生クリームを程よく飾って衣装を調えたところに、最後のお化粧を施すが如く、色とりどりに丁寧にキレイにカットされて並べられる…。
世の女性たちに、「ダイエットの敵!!」と言われながらも、その抗いがたい魅力に翻弄されるが如く注文してしまう、『ショートケーキ』や『フルーツパフェ』こそ、ふさわしいステージだと思うのだよ。
アナタの輝ける場所は、決して『カレー』の上などではないのだよ…。
私の考える「カレー」というのはね。
ごろっとしたジャガイモやニンジンが程よくのってて、とろけたお肉がちょこっと入ってて、カレールーと白いおコメが絡み合い、福神漬けとあいまって、口の中で絶妙なハーモニーを醸し出す…。
そういうのなの。
…いや、待てよ。 都会では、これが普通なのか?!
「東京にはスカート男子がいる」という話を聞いたときにも同じようなことを思ったが。
カレーとフルーツ…そして白米。
これが合うのか? ベストマッチングなのか?
驚く私が、時代遅れなのだろうか?!
…と、店の片隅のテーブル。
カレー皿を見つめながら、心の中だけで、ひとりパニック必至。
すでに、カレーとワタシの戦いは始まっている。
郡司さんの採点では、10対9でカレーですけどね。(←どうでしょうフリークにしかわからない小ネタ)
しかし。
しかしである!!
酢豚の中に入ってるパイナップルさえ、「此処はアンタの居る場所じゃない!!」と思っているワタシが「カレーの上にのっかったカットフルーツ」を許せるであろうか?!(反語で読んでね)
食事の「後」にフルーツが出てくるのは結構。
甘いデザートに添えられたカットフルーツは、食事の最後の楽しみ。
日本料理だって、「水菓子」と言えば果物のことだ。
私は何も、フルーツの入ったカレーを否定しているのでない。
マンゴーの入ったカレーは許せる。
ヒデキカンゲキ!!のカレーだって(表現が古い…)「りんごとハチミツとろ~りとけてる♪」わけだし。
だけどね。
いくら老舗の果物屋だからってね。
いちごにキウィにパイナップル、ご丁寧に種をキチンと取ったスイカまで…。カレーの上に色とりどりのカットフルーツ散りばめるってのはどうなのよ?
「色がキレイでしょ?」なんて理由だったらどついたる。責任者出て来いっ!!
そう。
100歩譲って、「トッピング」ならまだ許せるのだ。
蓼食う虫も好き好き(←例えが悪い?!)、人の好みは常識を超越する。
フルーツだけ別添えで持ってきて「お好みでフルーツをトッピングしてください」と言うくらいの機転は働かないかね?
この当たり前のようにカレーの上にのっかった、超場違いなところにいるくせに、「どうだ!!」と言わんばかりのドヤ顔をしたフルーツたちに、殺意を感じたのは私だけだろうか…。
…その後。
私は(心の中で)泣きながら、カットフルーツを除け除け、マンゴーカレーを食しましたとさ…。
朝カレーを食べて、少しは「カレーLove」な人の気持ちがわかるかと思いきや、フルーツカレーという未知との遭遇に疲れ果て「もう朝カレーなんて食べないもんっ!!」という、すっぱいぶどう的な虚しい決意だけが残りました…。
注釈!!
今回の「朝カレーとワタシ」については、ワタクシの独断と偏見に基づき構成されたもので、出てくる店に否はまったくございません。もちろん、恨みも一切ございません。この店のカレーが好きって方には申し訳ないです。
ただ単に、私の貧乏舌にはオシャレなカレーが合わなかったというだけですから…(笑)






